万葉集 形式 修辞 5

万葉集 形式 修辞 5

ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。, 現在見る形にまとめられたのは何時か不明。制作年代のもっとも新しい歌は天平宝字三年(七五九)正月の大伴家持の作歌だから、最終的編纂はそれ以後になる。最近の伊藤博説によれば、巻一から巻十六まで(これを第一部と呼ぶ)のうち、天平十六年(七四四)七月二十日の日付をもつ歌が新しく、第一部は天平十七年以降の数年間に成立、巻十七以降の四巻(第二部)は、少数の例外的に古い歌を除けば天平十八年正月から天平宝字三年正月までの作品であり、第一部に続き天平勝宝五年(七五三)八月から天平宝字二年初頭までに巻十七・十八・十九の三巻が成り、その後巻二十が加えられた。二十巻本編集の立役者は大伴家持で、現存の形とほぼ等しいものが作られたのは延暦元年(七八二)から翌二年にかけてであろうと推測される。巻一・巻二に関していえば、巻一前半部が持統天皇の発意により文武朝に編纂され、後半部の追補が和銅五年(七一二)から養老五年(七二一)までに行われ、同じころに持統万葉の企図を受けついで巻二が編纂された。この巻一・巻二を母胎に十六巻本、二十巻本に成長したのが現存の形だろうという。なお問題も多いが、数次の編纂によることと、大伴家持の手が多く加わっていることは間違いない。, 『万葉集』は実質的には舒明天皇時代(六二九―四一)から淳仁天皇の天平宝字三年まで、約百三十年間の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌など四千五百首余りを収録する歌集である。文学史的には口誦の歌謡から記載の抒情歌の生み出された原初期の作品の集成であって、天皇・皇后をはじめ皇族や貴族・大宮人とともに階層的に低い一般民衆の歌まで含むので、古代の人々の持っていた勃興的で意欲的なエネルギーに触れることができる。中世以降において和歌の歴史の行き詰まった時に、常に『万葉集』が顧みられ、万葉調の復興が唱えられたのも、このような『万葉集』のもつ清新なエネルギーを糧に、衰弱した歌の力の回復が求められたのだといえる。, 舒明朝から壬申の乱(天武天皇元年(六七二))まで。日本の古代史のなかでも激動の時期で、皇極天皇四年(大化元、六四五)六月の蘇我氏誅滅のクーデター、同年九月の古人大兄皇子の謀叛、大化五年の蘇我倉山田石川麻呂事件、斉明天皇四年(六五八)の有間皇子の死などの間に、大化の改新という大改革も行われ、古代国家の基礎が固められた。その後斉明天皇七年の新羅征討軍団の西征、天智天皇二年(六六三)の白村江の敗戦、同六年の近江遷都を経て壬申の乱に至るまで、文字通り多事多難であった。この期の歌は初期万葉歌とも呼ばれるが、文字との関係からいえば文字以前の口誦の歌といってよい。初期万葉歌に特に濃厚に認められる集団性・意欲性は限界芸術的性格で、宮廷儀礼や民間習俗の場と結びついている。舒明天皇の国見歌や中皇命の宇智野の猟の歌、近江遷都の時の額田王作歌などの長歌にはことに場の制約が強く認められる。歌謡や民謡との関係の濃密さは口誦歌として当然であろうし、この期の相聞歌のほとんどが求婚の贈答歌であるのは、その源流が歌垣の掛合いにあることを語っている。天智天皇七年五月五日蒲生野薬猟時の額田王と大海人皇子の贈答も、掛け合いの伝統を承ける宴席の即興歌で、いわゆる忍ぶ恋の歌ではなく、集団に共有されるものであった。自然に霊性を認め、それを畏怖しつつそれに依存し、自然と融即する傾向を持つのは、農業生活に根ざした必然的な性質でもあるが、そうした自然感情の濃厚にあらわれているのも初期万葉歌である。しかし天智朝には官人制の拡充、都城への集住、舶来の教養など文学的新風を生む条件も整った。漢詩を読み、それに模して和製の漢詩を作ることを通して得られた新しい文学の意識は、口誦とは別の世界を人々に教えた。そうした海彼の文学意識が徐々にやまと歌の発想や表現に浸透するのであって、主観語をあまり用いず、客観的即事的な表現を主としつつ、記紀歌謡より内面化し、対象の核心を簡浄な言葉でとらえ、独自の表現美を保持するところにこの期の歌の姿が示されている。, 壬申の乱以後奈良遷都(和銅三年)まで。天武朝には強大な専制王権の確立を見た。皇親政治が実現され、政治機構が充実したばかりでなく、文化的にも活力に満ちた時期であった。天武天皇四年二月の歌人貢上、同十年二月の律令修定の詔、同年三月の帝紀および上古の諸事記定の詔、翌十一年の『新字』四十四巻の作成など、一連の文化的事業はこの時期の動向を端的にあらわす。柿本人麻呂の歌人としての出発がこの天武朝にあり、口誦の歌謡から記載の抒情歌への転換期にあたっていたことは、その歌の性格を根本的に規定している。人麻呂は文字によって作歌した最初の歌人であった。その作歌法が前代と異なることは、枕詞・序詞・対句などを見ても明らかである。長歌・短歌・旋頭歌などそれぞれの歌体の記載文学における可能性が探られたのもこの時期であった。記紀歌謡や初期万葉歌と異なり、数十句または百句を越える長歌が人麻呂によって作られたのは、中国の辞賦の影響である。反歌が、長歌の内容の要約とか反復にとどまらず、長歌に詠まれている時間・空間の枠を越え独立的傾向を強めたのも人麻呂からである。複数の反歌や短歌による連作的構成が見られるようになったのは、読む歌として享受されたことと関連している。人麻呂はまた、自然にせよ人事にせよ、対象と混然合一の境地にあるような歌を詠んでいる。これは前期に関して触れた自然との融即性ともかかわるが、そうした古代的な心情と新しい技法との微妙な調和が前後に類を見ない人麻呂的特色をなす。人麻呂と同時代の歌人として、天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子・穂積皇子・但馬皇女・弓削皇子などの皇族と、藤原夫人・石川郎女・志斐嫗・高市黒人・長意吉麻呂・春日老などがあげられる。, 奈良遷都から天平五年まで。人麻呂没後の和歌史にさまざまな個性の開花した時期である。長屋王を中心とする奈良詩壇に藤原房前・藤原宇合・安倍広庭・吉田宜・背奈行文など貴族や文人が集まり、佐保の王邸ではしばしば詩宴が催された。その詩には『文選』『玉台新詠』ばかりでなく王勃や駱賓王など初唐詩の影響も指摘される。その影響はやまと歌にも及び、発想や表現の上にいちだんと明瞭な形であらわれるようになる。とりわけ注目されるのは、神亀五年(七二八)に大宰帥として九州に下向した大伴旅人を中心とする筑紫歌壇であった。山上憶良・小野老・沙弥満誓などを含む中国文学に造詣の深い官人たちの共作によって、初唐詩の詩序形式を模した梅花歌群が詠まれ、さらに『遊仙窟』や『文選』の「洛神賦」などの示唆を受けた松浦歌の歌序も作られる。旅人と憶良という、性格も文学観も対蹠的な二人の邂逅は、相互の特徴をいっそうきわ立たせることになった。現実的論理的な憶良が老病貧死の苦を佶屈な調べで歌ったのに対し、浪漫的空想的な旅人は嘆老・望郷の思いや亡妻思慕の情を流れるような調子で歌っている。これとは別に中央の歌人たちの中で、人麻呂の讃歌的伝統を継承したのは、笠金村・車持千年・山部赤人らであった。特に赤人は人麻呂の形式に学びつつ洗練された感性によって叙景的表現に特色を発揮した。また東国の地方官となった高橋虫麻呂は、旅愁や伝説を歌って異彩を放った。, 天平六年以後淳仁天皇の天平宝字三年まで。この期間は天平文化の爛熟期にあたり、東大寺の造営、大仏開眼などもあったが、政権争いの深刻化していった時期である。この期に注目されるのは、大伴家持との恋の贈答に哀切な歌を多く残した笠女郎、技巧的な作品で家持を拝跪せしめた紀女郎、家刀自として祭神歌、怨恨歌、天皇への献歌など多彩な作品を残した大伴坂上郎女など、一群の女性たちである。それらの歌は末期万葉の風雅を代表するもので、王朝女流の作歌へつながる性格を持つ。男性歌人では越中時代の家持の歌友大伴池主、宮廷歌人の流れを汲む田辺福麻呂の作が目に立つ。そのほか天平八年六月難波を出帆した遣新羅使人たちの歌百四十五首、越前国に流罪となった中臣宅守とその赦免を待つ狭野茅上娘子との贈答歌六十三首、天平勝宝七歳の防人歌など、遊戯的または形式的な宴席歌の多いこの期の作品の中で率直な抒情が注目される。大伴家持の作品は天平五年から天平宝字三年に及ぶ。少年時代のほのかな恋心を歌ったものから、地方生活を経て内面的豊かさを加え、人麻呂・赤人・憶良などの作品に多くを学び、中国文学の示唆も得て独自の歌境をひらくに至る。特に天平勝宝二年三月の春苑桃李の歌や少納言となって帰京後に詠まれた春愁の歌などが高く評価されている。なお『万葉集』四千五百首余りの中千八百首強が作者未詳歌である。巻十四の東歌のほか、巻七、十―十三などに多く含まれるそれらの作品が大河の流れるように万葉の基層を成していたことも見逃せない点である。, 中世以前の注釈書の中、画期的なものは仙覚の『万葉集註釈』で文永六年(一二六九)の完成。その後、由阿の『詞林采葉抄』があり、近世には、北村季吟『万葉拾穂抄』(元禄三年(一六九〇))、下河辺長流『万葉集管見』(寛文元年(一六六一)?)、契沖『万葉代匠記』(初稿本(貞享末)、精撰本(元禄三年))、賀茂真淵『万葉考』などのほか、荷田春満の講義を弟信名が筆録した『万葉童蒙抄』、本居宣長『万葉集玉の小琴』、橘千蔭『万葉集略解』、岸本由豆流『万葉集攷証』、橘守部『万葉集檜嬬手』、鹿持雅澄『万葉集古義』などがまとめられた。明治以後になるとアララギ派の歌人による万葉調の唱導と批評の活溌化に伴い研究もいっそう盛んになった。『万葉集』の古写本および伝本の文字の異同を明らかにした『校本万葉集』(大正十三年(一九二四)・十四年)の出版のほか、橋本進吉・佐伯梅友らによる国語学的研究、折口信夫の民俗学的研究、岡崎義恵・高木市之助の文芸論的研究、北島葭江らによる風土地理的研究など多彩な方法で解明が試みられ、第二次世界大戦後の研究への足場が築かれたのである。翻刻・校注は『日本古典文学大系』四―七、『日本古典文学全集』二―五などに収められている。. l‚ªŽ€‹Ž 一万葉集の序歌の一部に、「二重の序」と呼ばれるものがある。序詞が重ね用いられたものである。序詞によって導かれた地名が掛け詞になっていて、さらに序詞となって下文を導いている。詳細に検討されたものとして井手1975.がある。そこでは次の歌があげられ、説明されている(注1)。 The earliest extant collection of Japanese poetry. 1つの音(言葉)に2つの意味を持たせる技法。「あき」に「秋」と「飽き」を掛けるといった具合に、ダジャレのようなもの、と考えると分かりやすいでしょう。 例:『山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬと思へば』 意味:山里は特に冬は寂しさがまさるものだ。人の訪れも絶え、草も枯れてしまうと思うと。 ※「かれ」に「枯れ」と途絶えるという意味の「離(か)れ」を掛けています。 掛詞がある場合、その … Divided into 20 books, it con ... ... 果をほぼ集大成している。雅澄の万葉研究の目的は,上古のありかたをうかがうことであり,雅澄が《万葉集》に見いだしたものは,〈皇神の道義(みち)〉と〈言霊の風雅(み ... ... 江戸後期の万葉集の注釈書。141冊。鹿持雅澄(かもちまさずみ)著。文政10年(1827)ごろ成立、天保13年(1842)ごろまで加筆。万葉集本文の解釈を中心に、 ... ... 江戸後期の、「万葉集」の注釈書。一四一冊。鹿持雅澄著。草稿成立は文政一一年(一八二八)頃、天保一一年(一八四〇)完成後も天保末年(一八四四)頃まで改正を重ねる。 ... ... 江戸時代の『万葉集』注釈および研究の書。鹿持雅澄著。百四十一冊。そのうち『万葉集』二十巻の注釈に九十五冊を、総論四冊、人物伝三冊、品物解四冊、枕詞解五冊など、 ... ... ©平安末期の万葉集の注釈書。1巻。藤原盛方著か。万葉集の短歌169首、長歌3首、旋頭歌1首に、簡単な注を片仮名で施したもの。 ... ... 井上通泰の著作。大正4年(1915)〜昭和2年(1927)刊行。「万葉集」全歌の注釈書。 ... ... 江戸後期の万葉集の注釈書。2冊。本居宣長著。安永8年(1779)成立。天保9年(1838)刊。巻4までの歌を抄出して注釈を施す。賀茂真淵の「万葉考」を補説したも ... ... 江戸後期の、「万葉集」の注釈書。二冊。本居宣長著。第一冊は安永八年(一七七九)成立、第二冊(追考)は成立年未詳。天保九年(一八三八)刊。巻一〜四までの歌を摘出し ... ... 「まんようだいしょうき(万葉代匠記)」に同じ。マンヨーシュー=ダイショーキ©[ヨ]=[ショ] ... ... 1269年〈文永6 己巳〉 4・2 仙覚, 『万葉集註釈』 を著す(同書奥書)。 ... ... 鎌倉中期の万葉集の注釈書。10巻。仙覚著。文永6年(1269)成立。万葉集の本格的な注釈書として最初のもの。仙覚抄。万葉集抄。 ... ... 鎌倉中期の、「万葉集」の注釈書。一〇巻。仙覚著。文永六年(一二六九)成立。全巻の難解な歌について精細に注解し、書名の意義・撰定・撰者などに関して論理的文献的に研 ... ... とも注意すべき著作といいうる。『万葉集叢書』八に所収。→仙覚(せんがく) [参考文献]佐佐木信綱『万葉集の研究』一、久松潜一「万葉集註釈書の研究」(『校本万葉集 ... ... きい。稿が成るごとに本居宣長の閲を請い,その説をとりいれることも少なくない。《万葉集》の簡単な全注として,《万葉集》の普及に貢献した。平野 仁啓 橘千蔭 加藤千 ... ... 江戸後期の万葉集の注釈書。20巻30冊。橘千蔭(たちばなちかげ)著。寛政8〜文化9年(1796〜1812)刊。先人の説を集成した簡便な全注で、入門書として広く読 ... ... 江戸後期の、「万葉集」の注釈書。二〇巻三〇冊。橘千蔭著。寛政一二年(一八〇〇)成立。寛政八年(一七九六)から文化九年(一八一二)刊。師賀茂真淵はじめ本居宣長、契 ... ... 1840年〈天保11 庚子〉 6・‐ 鹿持雅澄 『万葉集古義』 成る。 1880年〈明治13 庚辰〉 この年 鹿持雅澄 『万葉集古義』 刊(~明治23年)。 ... ... 1805年〈文化2 乙丑⑧〉 10・‐ 加藤千蔭、 『万葉集略解』 を幕府に献上(続実紀)。 ... ... 「しんせんまんようしゅう(新撰万葉集)」の別称。カンケマンヨーシュー©[ヨ] ... ... 歌集。20巻、別巻1。1979年(昭和54)2月から1980年12月にかけて講談社から刊行。編集顧問に土屋文明(ぶんめい)、土岐善麿(ときぜんまろ)、松村英一、 ... ... 古今集の真名序に名がでてくる歌集。諸家集や古歌を集めたもので、古今集編集の資料といわれる。 ... ... の漢訳詩も当初は数首にすぎなかったものが増補されて現形に至ったと考えられる。『菅家(かんけ)万葉集』と異称されたが、菅原道真(すがわらのみちざね)自身の関与を裏 ... ... ごとに七言絶句の漢詩を配している。《万葉集》以来初めての和歌の撰集として,9世紀後半の宮廷和歌文学を考える上で注目される。小沢 正夫 菅原道真 菅家万葉集(かん ... ... 「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおおんとききさいのみやのうたあわせ)」などの歌を主な資料とする。菅家(かんけ)万葉集。 ... ... おのおのに七言絶句の漢詩を配したもの。菅家万葉集。*日本紀略‐寛平五年〔893〕九月二五日「菅原朝臣撰©進新撰万葉集二巻 ... ... [参考文献]久曾神昇『新撰万葉集と研究』(『未刊国文資料』)、後藤昭雄『新撰万葉集』(『在九州国文資料影印叢書』一)、浅見徹『新撰万葉集』解説(『京都大学国語国 ... ... 893年〈寛平5 癸丑⑤〉 9・25 菅原道真、 『新撰万葉集』 を撰進(紀略)。 913年〈延喜13 癸酉〉 8・21 『新撰万葉集』(増補本) 成る(同書序 ... ... 1人1首から最高50首を収録。明治、大正、昭和の3代にわたり、あらゆる階層の有名無名の歌人を網羅し、現代の『万葉集』たらしめようとした一大詞華集である。藤岡武雄 ... ... 平安時代後期の古筆切。素紙に、薄墨で罫線を引いた中に、『万葉集』を書写する。もとは、二十巻を具備していたものであるが、いまは、巻十三の一巻(京都福井崇蘭館蔵) ... ... 木活字版 巻19 慶長年間(1596~1615)刊 冒頭の2首は大伴家持(おおとものやかもち)作の春苑桃李(しゅんえんとうり)の歌 ... ... 巻1 仙覚(せんがく)著 1269年(文永6)刊 ©国立国会図書館 ... ... 「万葉集」の情報だけではなく、「万葉集」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。, 飛鳥・奈良時代の歌集。二十巻。〔成立〕現在見る形にまとめられたのは何時か不明。制作年代のもっとも新しい歌は天平宝字三年(七五九)正月の大伴家持の作歌だから、最終的編纂はそれ以後になる。最近の伊藤博説によれば、巻一から巻十六まで, 《万葉集》の歌人。生没年,経歴とも不詳ながら,その主な作品は689-700年(持統3-文武4)の間に作られており,皇子,皇女の死に際しての挽歌や天皇の行幸に供奉しての作が多いところから,歌をもって宮廷に仕えた宮廷詩人であったと考えられる。, 《万葉集》第1期(舒明朝~壬申の乱)の女流歌人。生没年不詳。《日本書紀》天武天皇条に,鏡王の娘で,はじめ大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁して十市皇女を生んだとあるほかは,伝もつまびらかでない。父の鏡王に関しても不明。出生地についても大和国,近江国の2説あるが,どちらとも決定しがたい。, 日本語を表記するために、漢字の字音や字訓を利用して表音的に用いたもの。用法の上からは仮名の一種であって漢字本来の表意的な使い方とは異なるが、文字の形としては漢字であり、漢字を省画化した片仮名や略草化した平仮名とは異なる。奈良時代以前, 『万葉集』末期の代表歌人、官人。旅人の子。少年時の727年(神亀4)ごろ父に伴われ大宰府で生活し、730年(天平2)帰京。737年ごろ内舎人。745年(天平17)従五位下。翌3月宮内少輔。7月越中守として赴任した。751年(天平勝宝3)少納言となって帰京。, 西鶴諸国ばなし(扉)絵入 西鶴諸国はなし 一(扉)巻一 あらまし大下馬 巻一 目録公事は破らずに勝つ見せぬ所は女大工大晦日はあはぬ算用傘の御託宣不思議のあし音雲中の腕押し狐四天王絵入 西鶴諸国はなし 二(扉)巻二 あらまし大下馬 巻二 目録姿の飛び乗, 老女の隠れ家 「美女は男の命を断つ斧」と昔の人もいっている。咲いた花がいつか散り、枝は夕の薪となるように、人間もいつか年老いて死んでいくのは誰も逃れられぬ運命である。しかし、それを時ならぬ朝の嵐に散らすように、色道に溺れて若死にする人ほど愚かな者, 恋は闇夜を昼の国 春の海は静かに、宝船が碇をおろす、室津という所は、繁盛の大港である。ここに酒造りを家業とする和泉清左衛門という商人があった。家は栄え、万事に不足なく、その上、息子に清十郎といって、その生れつきはおのずから業平の姿絵よりも美しく, 賦何人連歌連歌集(扉)例言文和千句第一百韻(扉)作品解説・作者解説賦何人連歌姉小路今神明百韻(扉)作品解説・作者解説賦朝何連歌水無瀬三吟百韻(扉)作品解説・作者解説何人湯山三吟百韻(扉)作品解説・作者解説何人宗祇独吟何人百韻(扉)作品解説・作者解説, 中国で『唐詩選』以上に重んじられ,愛誦されてきた唐詩精華集。すべての原詩に読み下しと流麗な訳をあたえ,さらに簡明な解説・語釈を付して鑑賞の便をはかった。第1巻は,五言・七言の古詩および楽府を収める。巻頭に,唐代の詩史・作詩法を概説する序説を付す, ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。. 一万葉集の序歌の一部に、「二重の序」と呼ばれるものがある。序詞が重ね用いられたものである。序詞によって導かれた地名が掛け詞になっていて、さらに序詞となって下文を導いている。詳細に検討されたものとして井手1975.がある。そこでは次の歌があげられ、説明されている(注1)。 754”N ŠÓ^‚ª—ˆ“ú 『万葉集』に多く見られ、ふつうは5音からなります。 語源や意味が分からないものが殆どで、歌の意味には直接的に関係しません。 同じような修辞方法に序詞(じょことば)がありますが、枕詞よりも音数が多く、そのつど自由に作られました。 copyright© GANBAREBONJINI all rights reserved. 飛鳥・奈良時代の歌集。二十巻。〔成立〕現在見る形にまとめられたのは何時か不明。制作年代のもっとも新しい歌は天平宝字三年(七五九)正月の大伴家持の作歌だから、最終的編纂はそれ以後になる。最近の伊藤博説によれば、巻一から巻十六まで 759”N –œ—tI‰Ì. 万葉集 (まんようしゅう) 【成立時期】 奈良時代 (759年?) 【作者・編者など】 不 明 ※ 大伴家持(おおとものやかもち)が撰者(せんじゃ)という説もある 【種別・ジャンル】 歌 集 【内 容】 746”N ‘唺‰ÆŽ‚ª‰z’†•‹”C 「短歌(和歌)」は『万葉集』以来1300年もの長い間、たくさんの人によって詠われてきました。, その中から次第に五・七・五・七・七の短歌のリズムが生まれ、文字の発展とともに、日本独自の伝統的な詩のスタイルとなっていきました。, 奈良時代から現代まで詠まれている短歌・和歌の魅力、それは、いつの時代も変わらない「人の心」を表現していることです。, 自然に触れて感動したり、恋に悩んだり、孤独を悲しんだり、そんな日常に溢れる感情を、親しみやすいリズムで詠んでいることこそが、短歌・和歌の魅力なのでしょう。, 今回は、短歌・和歌のルールや決まりと修辞法。短歌と和歌の違いと歴史を調べてみたいと思います。. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 奈良時代に誕生した短歌はその頃、「短歌」「長歌」「旋頭歌」「仏足石歌」「片歌」という五七調の歌(五音と七音を基調とした歌)を全て含めた形で「和歌」と呼ばれていました。, それが平安時代に入ると、「短歌」以外の歌の文化が廃れていき、「和歌」というと自然と「短歌」の形式の歌を指すようになっていきました。, 当時、貴族やエリート層の人々にとって「和歌」は教養の1つであり、「和歌」が上手に詠めることが、出世や結婚に影響するということもよくある話でした。, そのため、内容はもちろん、それをいかに情趣あるものにしていくか、人々は工夫を凝らしながら詠んでいたのです。, また、「和歌」のもう1つの特徴として、貴族や文化人などが中心になって盛り上がった文化といえることです。, その表れとして、「和歌」が収められている歌集には、天皇や上皇の「勅命」によって編纂されたものが多くあり、また、宮中での「歌合(うたあわせ)」の様子は古典文学作品にもよく描かれていました。, 長い間、多くの人に詠まれ、親しまれてきた和歌ですが、明治時代に入ると「和歌」の歌風を批判する声が上がり始めました。, それがきっかけとなり、同じ三十一文字(みそひともじ)の文学でありながら、明治時代以降の作品を「短歌」と呼び、これまでの「和歌」と区別するようになりました。, 近代の「短歌」には、都市化・近代化していく社会を背景に、人生の苦悩や不安が多くあります。, それが現代になると、口語表現や外来語を用いて表現されるなど、時代と共に「短歌」も変化してきました。, また、「短歌」は「和歌」で使用されていた修辞法をあまり用いないこと、そして天皇や貴族など権力とも切り離された文学である、という特徴も押さえておきたいです。, 和歌に用いられる「修辞法」とは、表現を豊かにしたり、趣を添えるために、言葉を効果的に使う技法のことです。, 明治時代以降に詠まれた「短歌」には「修辞法」はあまり用いられていませんが、「和歌」を鑑賞する上ではとても重要になってきます。, ここでは「和歌」に使用される代表的な「修辞法」とそのルールを、例文と一緒に解説していきたいと思います。, 1つの音(言葉)に2つの意味を持たせる技法。「あき」に「秋」と「飽き」を掛けるといった具合に、ダジャレのようなもの、と考えると分かりやすいでしょう。, 意味:山里は特に冬は寂しさがまさるものだ。人の訪れも絶え、草も枯れてしまうと思うと。, 掛詞がある場合、そのほとんどが、一方が「自然に関する事物」、もう一方が「人間の心情」というパターンで掛けてあります。ここでは、「枯れ」が自然に関すること、「離(か)れ」が人間の心情となっていますね。, ある特定の語句を導き出すための飾り言葉のこと。普通は5音から成る句を言い、歌の解釈の際には訳さなくても意味が通じることがほとんどです。, 意味:日の光がのどかにさしている春の日に、どうしてあれほどあわただしく、落ち着いた心もなく桜の花は散っていくのであろうか。, ※「ひさかたの」は「光」「日」「天」「月」「空」を導き出す枕詞。ここでは「光」を導き出しています。, 働きは枕詞と同じで、ある言葉を導き出すための飾り言葉です。音数が不定で5音以上のものが多く、枕詞が慣用的であるのに対して、序詞は作者が自由に作り出す1回限りの表現と考えて良いでしょう。, 意味:秋になると、すすきの上に露が置きます。その露のように今にも消えてしまいそうな程、私はあなたのことが切なく思われます。, ※「秋づけば 尾花が上に 置く露の」は「消ぬ」を導き出すための序詞であり、「露」と「消ぬ」が意味(イメージ)で繋がっています。, 意味:みかの原を分けて、湧き出して流れるいづみ川。「いつみ」というその言葉のようにあなたをいつ見たのか。一度も逢ったことないのに、どうしてこんなに恋しいのだろうか。, ※「みかの原」・・・「瓶原(みかのはら)」と書き、現在の京都府の木津川沿いの平地のことです。和歌によく詠み込まれる名所「歌枕」の1つでもあります。, ※「みかの原 わきて流るる いづみ川」は「いつ見」を導き出すための序詞であり、「いづみ川」と「いつ身」が発音で繋がっています。, つながりのある言葉を次々と意図的に詠み込み、面白みを添える技巧。連想ゲームのようなもの、と考えると分かりやすいでしょう。, 意味:苦しみの多いこの世をきっぱり捨て、鈴鹿山を越えて僧侶になったのですが、この先わが身はどうなっていくのだろうと不安になってしまいます。, ※「振り」「鳴り」「鳴る」は、鈴から連想される言葉であり、「鈴」の縁語となっています。, ※鈴鹿山・・・三重県と滋賀県の県境付近の山々で、和歌によく詠まれる名所「歌枕」の1つです。, 当時の人なら誰もが知っている有名な古い歌の一部を詠み込んで一首を作る技法。作者の新しい感動に、古歌のイメージを重ね、感動を深めることができます。, 意味:夜が更けるにつれて、波打ち際は凍っていくのだろうか。音が遠ざかっていく志賀の浦の波よ。, 意味:志賀の浦よ。夜が更けるにつれて海が凍っていき、次第に波打ち際が岸辺から遠ざかっていく。その波の間から、氷ついたように冷たい光を放って出てきた明け方の月よ。, ※「本歌」は「遠ざかっていく波の音」を中心に詠んでおり、屋内から聴覚的な冬の景色を想像する内容となっています。一方、「本歌取り」の方は、本歌の内容・イメージを踏まえたうえで、光を放って出てきた「有明の月」という言葉を新しく入れたことにより、屋外の視覚的な景色へと変化させているのです。, 意味:浮橋(水上にいかだや舟を並べて簡易的に作った橋)のように儚い夢が途切れて目を覚ますと、嶺のあたりから橋に棚引く雲が離れていく夜明けの空であるよ。, 意味:吉野の山のほとりに咲いている桜は、雪ではないかと見間違えてしまう程だったよ。, 意味:着慣れた唐衣(十二単の一番上に着る丈の短い衣)のように、長年親しんだ妻を都に置いてきたので、この美しい花を見るとその妻のことが思い出され、はるばる来た旅路の遠さをしみじみ感じるよ。, ※これは、在原業平がモデルと言われる『伊勢物語』に出てくる有名な歌で「カキツバタ(杜若、燕子花)」を各句の最初に詠み込んでいます。, 一首の歌が意味の上でいったん切れる位置によって、初句切れ・二句切れ・三句切れ・四句切れの区別が生じます。句切れを見つけるコツとしては、, というのが挙げられます。但し、あくまでも「意味の上で切れる」ことがポイントであり、①から④の形があっても「句切れ」とならないケースももちろんあります。, 初句切れ(五/七五七七)と三句切れ(五七五/七七)は七五調と言われ、『万葉集』に多く、荘重で重厚な印象を与えます。, また、二句切れ(五七/五七七)と四句切れ(五七五七/七)は五七調と言われ、『古今和歌集』に多く、軽快で流麗な感じを与えています。, 意味:尋ねたいものだ。少し三輪(みわ 地名)の市場に出て、命に代わるものがあるのかと。, ※「ばや」は願望の終助詞(~したいという意味を持つ終助詞)で、この和歌は初句切れになります。, 意味:世の中には辛さから逃れる方法はないのだろうか。世間からずっと離れた山奥でさえ、鹿が悲しげに鳴く声が聞こえてくる。, 意味:昔の優雅な暮らしを思い出してみては寂しく感じられるこの雨の夜。わびしい草庵(藁や茅などで屋根を作った粗末な家)でしみじみ昔をしのびながら涙にくれているのに、さらに涙を添えるように悲しい声で鳴いてくれるな、山ほととぎすよ。, ※「な」(文中の副詞)~「そ」(終助詞)は呼応して使われ、「~するな、~してくれるな」という禁止の意味を持ちます。「そ」は終助詞で、この和歌は四句切れになります。, 意味:これがあの、行く人も帰る人も知っている人も知らない人もみんなここで別れ、みんなここで別れ、ここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。, ※逢坂の関・・・京都から滋賀に向かう途中にある小高い峠「逢坂山」に置かれた関所で、人や物の出入りを見張るために設けられました。また、この「逢坂の関」は名前に「逢」の字が入っていることから、特に男女が「逢う」ことを掛け、詠まれた「歌枕」でもあります。, 以上が和歌の修辞法の代表的なものです。一つひとつ見ていくと、結構おもしろく、そんなに難しいものでもない、という感じがしませんか。, 修辞法は和歌を味わう上では大事なものであり、大学入試などでもとても狙われやすいポイントです。, しかし、そこに囚われ過ぎることなく、あくまでも「想いを効果的に伝えるための工夫」ということを忘れず、難しく考え過ぎないで欲しいと思います。, その上で、修辞法にも注目し、表現を味わい、作者が何故この修辞法を用いたのかなど、色々想像して鑑賞するのも面白いことではないでしょうか。, 修辞法について有り難く勉強させていただいております。 藤原俊成の歌の意味が上の歌のコピペになっているようです。 ご報告まで。.

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