乃木希典 殉死 写真 8

乃木希典 殉死 写真 8

大正元年(1912)9月13日、陸軍大将・乃木希典のぎまれすけが自刃しました。 この日は明治天皇が大喪たいそうの礼が行われた日。 日本武家社会において、殉死は中世から近世に行われていたものの、江戸幕府によって禁止されました。 というわけで、時代錯誤ともとれる乃木希典の殉死。 なお、「乃木将軍の肉声と其憶出(乃木将軍の肉声)」のB面には乃木の辞世、東郷平八郎および小笠原長生の詠んだ歌に橋本國彦が作曲し、合唱および徳山璉の歌唱による「乃木将軍の歌」が収録されている[239]。, この録音が実現した背景には、乃木とともにその肉声を吹き込んだ湯地丈雄が乃木の知遇を得ていたことから実現したもので、録音は湯地丈雄の息子である湯地敬吾が、自身が作成した円盤式録音装置で行われた[240][232][241]。

読みについて志甫哲夫は、静子の実家である湯地家は「ゆち」であり、湯地丈雄・敬吾の湯地家は湯地富雄によれば読みは「ゆじ」であり、その理由として「父からの教え」・「細川侯がそう言って父(敬吾)を呼んでいた」・「熊本の知人がそう呼ぶ」ことを挙げていることを根拠としている[251]。, 乃木が殉死した2ヶ月後、主演尾上松之助、監督牧野省三のゴールデンコンビによる『乃木将軍と生涯』が追悼公開された。6年後の1918年(大正7年)から山本嘉一が当たり役として乃木を7本演じた。戦前の作品は岩田祐吉が乃木を演じた『陸軍大行進』(松竹蒲田、1932年)の不完全版のみフィルムセンターにプリントが残っている。戦後は新東宝の「明治天皇もの」三部作と『日本海大海戦』の笠智衆と、乃木は全て脇役での登場であったが、1980年(昭和55年)の『二百三高地』での仲代達矢の熱演によって、ようやく乃木はスクリーンの主役に返り咲いた[282]。 もっとも、この映画での乃木は位置づけとしては群像劇の頂点であるのに対し、20年先立つ『明治大帝と乃木将軍』は、クレジット上の扱いは低い(明治天皇、昭憲皇后をトップとして第二クレジットで4名連記の扱い)ものの事実上全編乃木を主役として描いている。, なお、後に日露戦争で同僚となる将軍たちの初任官の年齢は野津道貫(明治4年)30歳少佐、黒木為禎(明治4年)27歳大尉、奥保鞏(明治4年)25歳大尉心得、児玉源太郎(明治4年)準少尉19歳、川村景明(明治5年)22歳少尉である, 但し先発の二個中隊(第一大隊の第三第四中隊)は19日午後に熊本城に入城し籠城戦に加わっている。, この三好の決断については後世批判もあるが、自身も陸軍士官学校52期卒でビルマなどで戦い、戦後は自衛隊に入り陸将補として退官した桑原嶽は当時の両軍の戦力から考えて三好の懸念も妥当であり、乃木の進言を受け入れていれば, なお軍旗を神聖視するようになったのは西南戦争から日露戦争を経て多くの激戦を経験してからであり、創設まもない当時はまだ軍旗を神聖視する風潮はなかった, なお歩兵第十四連隊には翌明治11年1月21日に連隊旗が再授与されている。奪われた軍旗も再授与後に発見され陸軍省が回収保管している。, 中西は、死地を求める乃木の行動を耳にした明治天皇が、乃木を前線指揮官の職から外すよう指示したとしている, 但し桑原嶽は著書で連隊規模の部隊が平時で演習する場合、最も重視する演習科目は火力で制圧しつつ敵陣地に近迫する「攻撃前進」であり、それは昭和期の日本陸軍では歩戦砲飛の協同と呼び、現在の米軍では「火力支援調整(Fire Support Coordination)」と呼んでいて重要視している。その火力は他部隊の砲兵火力(現在ではこれに戦車や航空戦力等も加わる)との連携であるので、奇襲でなくなるのは当然であり、とどのつまり「正面攻撃」になるのは当然であるとしている。, この中将昇進は少将に昇進した明治17年から11年以上も経過し旅団長を4回もしていることから、乃木の軍事的無能から進級が遅れたという論調があるが、桑原嶽によると少将昇進までハイスピードで進級した乃木が中将進級を足踏みさせられた可能性があり、当時の日本陸軍の規模から考えて中将が任じられる役職は多くなく、進級に11年を要した事が、乃木の能力が原因であるという論調は的を得たものではないと述べている。なお、乃木と一緒に少将となった9名のうち、乃木よりも先に中将に昇進したのは6名(川上操六、桂太郎、黒木為禎、奥保鞏など)だが、どれも乃木より年長者の上陸軍在籍年数も長い先輩であり、乃木よりも昇進が速いのは当然である。また乃木より遅れて少将に昇進した者(児玉源太郎など)で乃木を追い越して中将に昇進した人物は一人もいない, 敵陣地に対する「正攻法」とは、既に占領した地点から敵陣地の前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進んで進撃路を確保し、歩兵の進撃の際には十分に支援砲撃を行う攻撃方法を指す。, S・ウォシュバンは当時はシカゴニュース紙の記者で従軍記者として乃木第3軍に付き添っていた, 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、165頁, デイリー東北新聞社 新井田川漫歩 第6部 雪谷川水系・軽米 乃木将軍の愛馬 日清、日露両戦争に同行, http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0082/BO00820L019.pdf, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=乃木希典&oldid=80270392, 乃木は、1912年(大正元年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、明治天皇の, 将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や, 乃木は、いくつかの遺書を残した。そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた, ヴォーバンの戦術論(近代要塞に対する攻撃方法)に関する書物を読了することは軍人の当然の義務であった。しかし乃木は、近代要塞に関する専門知識を有しなかった, 乃木は司令部を過剰に後方へ設置したので、前線の惨状を感覚として知ることができず、児玉源太郎からも非難された, 第1回総攻撃は、あえて強靱な盤竜山および東鶏冠山の中央突破という机上の空論を実行に移したものであった, 早期に203高地を攻め、そこからロシア海軍の旅順艦隊を砲撃しさえすれば、要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができ、兵力の損耗も少なくてすんだはずである。しかし、乃木は、203高地の攻略を頑なに拒み, 旅順要塞は無視してしまうのが正解であり、ロシア軍が旅順要塞から出撃してきた場合に備えて抑えの兵を残しておけば十分であった, 乃木は、児玉源太郎に指揮権を委譲し、ようやく、203高地を陥落させることができた。児玉が指揮を執らなかったなら、損害は拡大していた, 日露戦争当時、塹壕を突破して要塞を陥落させる方法は、ある程度の犠牲を計算に入れた歩兵による突撃以外に方法がなく、有効な戦術が考案されたのは第一次世界大戦中期であるから、後世の観点から乃木を批判すべきではない, 乃木率いる第3軍の司令部があまりに後方に設置されていたのと批判は当たらない。戦闘指令所が置かれた団山子東北方高地は、前線(東鶏冠山)まで直線距離にして3kmであり、戦況を手に取るように見える距離である。よって、攻撃中止の判断も迅速に行うことができた, 第3軍に大本営より手渡されていた旅順の地図には旅順要塞の堡塁配置などに誤りがあり(例えば203高地などの前進陣地が書かれていない。東北方面の東鶏冠山などの堡塁が臨時築城の野戦陣地となっているなど)日本軍全体で要塞の規模を把握していなかった。敵陣地の規模が不明な以上、攻略地点を自軍に有利な東北方面にする(鉄道や道路があり部隊展開に有利。西北方面はそれがなく準備に時間を要しないと不利)のは当たり前の決断と言える, 旅順要塞に対して残置すべき兵力は4万ほどになると思われるから、たとえ第3軍が北上しても奉天会戦において活躍することはできなかった, 児玉源太郎が第3軍に与えた指示は予備の重砲の配置変換であり、同士討ち覚悟の連続射撃も攻城砲兵司令部の判断で実施されている, 時間があれば戦死者の遺族を訪問し、「乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と述べていた, 乃木が歩兵第11旅団長の旅団長として熊本に赴任していた際に生まれた子だったが、生後間もなく夭折し, 1942年 シンガポール陥落「乃木大将(2銭)寄付金1銭」 - 上記に「シンガポール陥落」スタンプと寄付金「+1」を追加したもの, スタンレー・ウォシュバン 『乃木大将と日本人』 目黒真澄訳、講談社学術文庫(新版), 木立順一『偉人伝:児玉源太郎(前篇)現代人が今一番目指すべき姿』メディアポート 2014年4月, 廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』(上)(慧文社)2016年, 廣木寧『天下なんぞ狂える―夏目漱石の『こころ』をめぐって』(下)(慧文社)2016年.

乃木と湯地丈雄は、この明治24年(1891年)に第3師団で行われた元寇に関する湯地丈雄の講演会の後に開かれたパーティーで初めて対面したが[242]、この時乃木は、「外敵は今後も元寇と同様国の西北から来襲するとの確信から」[242]「元寇の講話をして国民の惰眠を醒まそうとする行動の動機」[242]について語った湯地丈雄に対し「君の祖母に当たる位の婦人の教育が然らしめた筈だ」と答えて湯地丈雄を驚かせた[242]。湯地丈雄はまた、乃木の私室に湯地津尾子が私塾の外で論語の素読を書き取っている姿が描かれている掛け軸が掛かっているのを見て、「以来将軍と私は肝胆相照らす」[242]関係を作ることとなった。, 乃木らの肉声が収められたスタンパ(湯地原版)は湯地家の「家宝」[233]となり、長田幹彦の仲介で日本ビクターに有償譲渡された記録がある[243]。 【ホンシェルジュ】 乃木希典は日清戦争、日露戦争で活躍し、世界的にも有名な日本人のひとりです。明治天皇が崩御した際に殉死したことで、神格化される存在になりました。この記事では、そんな彼の壮絶な生涯と、知っておくべき意外な事実、さらにおすすめの本をご紹介していきます。 何か山県の乃木に対する姿勢に関しての論拠があれば知りたいです。, はじめまして。閲覧、コメント頂きありがとうございます! 確認が出来ましたら、コメント欄にてお知らせさせて頂きます。. 聖将「乃木希典(のぎ まれすけ)」とは何をした人なのか?簡単に理解できる記事はコチラ!「日露戦争」で活躍し、日本を勝利にみちびいた「乃木希典」将軍「子孫」や「乃木坂46」との関係・・・・そして今も論争がつづく「評価」について… 乃木希典の生涯に興味があって拝見させていただきました。

>それに対して山県有朋は、連隊旗を奪われたのは乃木の責任ではないとして処分せず。, 参考文献の記載がなく、申し訳ありません。

乃木希典略歴、(一八四九~一九一二)。明治期の陸軍大将。長州藩士の家に生まれ、吉田松陰の師である伯父玉木文之進に薫陶を受ける。明治元年、戊辰戦争で幕軍と戦い、四年、陸軍少佐任官。十年、西南戦争で苦戦、軍旗を奪われ、これが終生の恨事となる。

下記の一文になりますよね。 乃木希典が連隊旗を奪われた経緯 そして、殉死との関係; 殉死した乃木希典に対する海外の反応とは; 乃木希典の肉声が現在でも聴ける! 録音の経緯に迫る! 金州城外立斜陽 (金州城外斜陽に立つ), 爾靈山嶮豈難攀 (爾霊山(にれいさん)の険豈に攀(よ)ぢ難からんや) 鐵血覆山山形改 (鉄血山を覆いて山形改まる) 乃木陸軍大将は大正元(1912)年9月13日、明治天皇の大葬が行われた日に夫人と共に殉死しました。 これが歴史上の偉人による殉死としては最後のものになるかもしれませんが、実はこれ以後も殉死はありました。 昭和64(1989)年、昭和天皇崩御の際に4人の男性が後追い自殺をしたと確認されており、これも殉死ということになります。そのため、最後の殉死とはこのことになるのでしょうか。 乃木と湯地丈雄の関係は明治24年(1891年)までさかのぼる。湯地丈雄の祖母である湯地津尾子が女手一つで丈雄に教育を施し、その善行貞節ぶりに乃木の母である壽子が私淑して教育方針に取り入れ、その流れで乃木自身も湯地津尾子を尊敬するようになった[242]。

歴史、美術、文学、言葉、文化についての雑学・うんちく・豆知識・トリビアを集めたサイトです。気になった記事や文章を個人のメモとして投稿しています, 明治期の陸軍大将。長州藩士の家に生まれ、吉田松陰の師である伯父玉木文之進に薫陶を受ける。明治元年、戊辰戦争で幕軍と戦い、四年、陸軍少佐任官。十年、西南戦争で苦戦、軍旗を奪われ、これが終生の恨事となる。翌年結婚。十九年、ドイツ留学、帰朝後休職し、那須野で農耕生活を送るが、日清戦争に旅団長として出征。三十七年、日露戦争では司令官として旅順攻略を指揮、この激戦で二子を亡くす。しかし旅順では無謀な突撃を繰り返して、徒に死傷者を増やし、児玉参謀総長自ら指揮をとって、ようやく陥落させたのだ、という噂があった。四十年、学習院院長に任ぜられ、その精神主義を以って皇族子弟の教育に当るが、四十五年、天皇崩御により、妻静子とともに大喪の当日、自邸にて殉死を遂げた。, 明治四十五年(一九一二)九月十二日夕、日露戦争の輝ける英雄、乃木希典将軍(六三歳)は遺書を認めた。翌十三日は日本史に残る一日、明治天皇の御大葬の日であった。, 乃木はその朝、大礼服に身を改め、静子夫人(五三歳)とともに記念写真を撮影したのち、最後の参内に向った。帰宅して静子とその姉、馬場サタ子を加えて昼食をとり、午後も大分回ってから、静子ともども居間に退いた。乃木邸は赤坂の邸町にあり、居間はその二階、二間続きの日本間である。, 階下でサタ子はいぶかしんでいた。将軍が御大葬儀に列する気配のないのは不思議であった。日も落ちて午後八時前、霊柩の宮城出発を告げる号砲が鳴り響いた。, ほどなくサタ子は、二階にあやしい物音を聞いた。すぐ様子を見に女中をやったが、座敷の戸は内側から錠が下ろされていた。内部からは呻き声らしいものが聞えたが、はっきりしなかった。, サタ子は直ちに付近の警察官詰所に電話したが、生憎話し中である。近所の医師にも連絡はつかない。最後に、御大葬の警備強化のため長野県から派遣されて付近を回っていた警察官が、たまたま女中の泣き喚く声を聞きつけて、邸内に入った。座敷の戸を押し開いてみると、血の海の中で将軍は横向きに倒れ、静子夫人はうつ伏せの姿勢でこと切れていた。死後一時間足らずとみえた。午後九時には警視庁の岩田凡平医務医員が到着、室内の状況をつぶさに記録しながら、綿密な検死にあたっていた。夫妻の死は自刃によるものと確認された。 夫妻は天皇を偲ぶ和歌を各一首、乃木はさらに次の辞世一首を遺していた。, 彼は殉死の計画に細心の注意をはらい、冷静に実行した。当日、別当の少年と書生に暇をやっていたのも計画の一部であったろうと思われる。居間に篭った夫妻は明治天皇の写真、戦死した二人の息子と乃木の両親の写真を飾った。乃木は陸軍大将の軍服を着し、静子は紋付姿だった。弔砲の轟きとともに、じっと耐えて待っていたひと時が終った。, 警視庁警察医による死体検案始末書から推すと、先ず、静子は短刀を用い、三度その胸を刺した。一度は胸骨に当たり、それが遮った。二度目は右肺にまで達したが、これでも死に切れなかった。三度目の右肋骨弓付近の傷は既に力が尽き始めていたのか浅かった。 希典が手伝わざるを得なかったであろう。状況を想像すると、希典は畳の上に、短刀を拳をもって逆に立て、それへ静子の躰を被せ、切先を左胸部に当てて力を加えた。これが致命傷になった。刃は心臓を貫き、それが背の骨にあたって短刀の切っ先が欠けていた。希典は静子の姿を繕った。, その後、乃木は古式に従って自刃した。彼は坐して上着を脱ぎ、軍服のボタンを外し、腹を寛げた。軍刀を抜き、刃の一部を紙で包み、逆に擬し、やがて左腹に突き立て、臍のやや上方を経て右へ引き回し、一旦その刃を抜き、第一創と交叉するよう十字に切り下げ、さらにそれを右上方へ撥ね上げた。作法でいう「十文字腹」である。, 次いでズボンの釦を丁寧にかけたのち、刃を上に、軍刀の柄を膝の間に立てると、死へ向って身を投げかけた。刃はうつ伏した乃木の頸部を貫き、頸動脈を裁断した。畳の上に鮮血が迸るなかで、乃木は直ちに絶命した。, 乃木夫妻殉死の噂は、御大葬の儀式が終る前から、誰いうとなく広まった。翌朝の各紙の記事がその噂を立証した。東京朝日新聞は一面に大見出しで報じた。, すぐ世界にも広がった。乃木はすでに旅順要塞の攻略者としてこの当時の日本人としては他国での知名度がもっとも高く、その死は文明世界の殆どの国の新聞に掲載された。その論評のすべてがこの日本の貴族が演じた中世的な死の様式に愕きつつも、その殆どが激しく称賛した。, 公式発表は自刃の全貌を明らかにしていなかったため、新聞報道の一部には食い違いがあった。しかし全面的な公式発表がない状況でも、大衆は殉死という事件に湧き立ち、賛否両論が入り乱れた。すでに徳川幕府によって殉死が禁止されて以来、約二百五十年を経ているときに、乃木の行為は時代錯誤であると考える人々もいた。もと学習院の生徒であった作家・志賀直哉は「…馬鹿な奴だという気が、ちょうど下女かなにかが無考えになにかしたとき感ずる心持ちと同じ様な感じ方で感じた」と日記に書いている。 しかし民衆や新聞の大多数は乃木の切腹に感動し、明治天皇への至忠を貫いた崇高な行為として賞め称えた。 乃木は日露戦争後、旅順攻撃で死んだ多くの将兵の犠牲を償うため割腹して詫びたい旨を天皇に申し述べたことがある。返事がなく、乃木が退出しようとしたとき、呼び止めて次のように沙汰したという。「卿が割腹して朕に謝せんとの衷情は朕よくこれを知れり。然れども今は卿の死すべきときにあらず。卿もし強いて死せんならばよろしく朕が世を去りしたる後においてせよ」 また三十五年前、乃木は西南戦争に出陣し、植木坂の戦いで軍旗を奪われていた。軍人として最大の恥辱である。乃木処罰の動議も出たくらいだが、天皇のとりなしで何事もなく済んだ。この恩を忘れたことはなかった。この後、常に死に場所を捜していたがそれを得なかった。こんど大帝崩御に終に機会を得たと遺書にあった。 この殉死の日に、第二次大戦敗戦に至るまでの日本帝国において最も重要な庶民の英雄のひとり、乃木希典の神話が生れたのである。, 乃木の殉死は、日本のひとつの過渡期に終止符を打った。明治時代に、日本の指導者達は徳川幕府の鎖国政策から抜け出し、近代国家の基礎を築く事業を着々と進めていた。古い慣習は捨てられて新しい体制が採用され、社会は大きく揺れ動いた。, この過程において天皇制は要となる役割を果たし、一般大衆は明治天皇を軍事、工業立国に突き進む日本の象徴として仰いだ。実際にはすべての明治エリートがその忠義の対象を藩主・将軍から天皇へと移し変えたといってよく、一個の人格としての天皇と一体感を持つ者が多かった。一部の武士は、明治政府が天皇の”真意”を体していないとして、激しく非難した。, 乃木は明治日本の栄光と闘争をともに体現している。建前として彼は、「和魂洋才」の結実である意気盛んな愛国主義と、軍国主義的拡張政策の表象だった。本音において彼は、急速に変化する社会的価値観への順応を迫られ、さまざまな心理的問題を相手に、たった独りの辛い闘いに立たされた者の典型であった。, 乃木が生きている間も、また死後においても、個人的な葛藤―とくにその死―を解決するにあたって彼が採った道は、日本社会における、より大きな歴史的論争にとって、重要な意味を持つに至った。正しく乃木の自刃においては、個人的な意味の水準と歴史的なそれとが一体となっている。, 乃木は例外的なケースだった。―なぜなら一九一二年七月三十日、明治天皇の死にさいして、殆んどの日本人は一時代の終焉を見た。だが乃木は、自分の生の終焉を見たのである。, 乃木は、最後まで自分の一生を暗い不遇なものと感じていたらしい。彼はよく座談の中で電車の座席の話をしたという。 「電車に乗っていると、座ろうと思って、そのつもりで鵜の目鷹の目で座席を狙って入ってくる。ところがそういう者は座れないで、ふらりと入ってきた者が席を取ってしまう。これが世の中の運不運というものだ」, 平成二十四年二月、乃木直筆の手紙が発見された。殉死の約二年前に、養子を勧める友人に宛てた返信である。それには、「戦死病没者の遺家族に対して申し訳なく」‥‥「息子の戦死で面目を保つことができた‥‥」。養子については、「弊家は小生共一代にて」とし、後継ぎは考えていない気持ちを伝えていた。. 。各国報道機関では乃木を日本軍の名将として紹介している[165][注釈 28]。, また、日露戦争での日本の勝利は、ロシアの南下政策に苦しめられていたオスマン帝国で歓喜をもって迎えられた。乃木はオスマン帝国でも英雄となり、子どもに乃木の名前を付ける親までいたという[217]。, 現役の陸軍大将として軍事参議官に親補されていた乃木は、大正元年(1912年)に満62歳で殉死しており、前述の通り元帥府には列せられていない。しかし、乃木が殉死せずにもっと長生きしていれば、彼が元帥府に列せられていた可能性は高いとする説が有力である。, 明治40年(1907年)に乃木が学習院長を兼任した時に、陸軍将校分限令の規定によって予備役に編入されるべきところを、明治天皇の勅命により現役に留まるという異例の人事がなされたことについて、桑原嶽は「これは当然、終身現役である元帥への昇進の含みもあったからであろう。」と述べている[139]。, もしも乃木が明治天皇に殉死していなかったら、乃木はいずれ元帥府に列せられたかどうかにつき、軍事史家の横山恵一は「歴戦の功将、人格高潔な武将という点で元帥を選考するなら、乃木は将に将たる器で、選に入ったのではないですか。」と述べ、秦郁彦は「〔乃木が〕生きていれば大正四年〔1915年〕に長谷川好道、貞愛親王、川村景明といっしょにね。」と述べている[218]。実際には前述の通り、乃木に元帥の称号を贈る話は生前からあったものの、本人がこれを固辞していたとも言われている。, 乃木は、日露戦争において多くの兵士を無駄に死なせてしまったことを心底から悔い、生涯にわたって自責の念に苛まれ続けていた。乃木が前述の通り元帥の称号を断り、最終的に割腹自殺したのも、日露戦争で多くの兵士を死なせたことに対する自責の念が最大の理由だったとする意見は根強い。, 少将時代の乃木が訪れた金沢の街で辻占売りの少年を見かけた。その少年が父親を亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年に当時としてはかなりの大金である金2円を渡した。少年は感激して努力を重ね、その後金箔加工の世界で名をなしたという逸話によるものである。乃木の人徳をしのばせる逸話であり、後に旅順攻囲戦を絡めた上で脚色され「乃木将軍と辻占売り」という唱歌や講談ダネで有名になった[225]。, 乃木は楠木正成を深く崇敬した。乃木の尽忠報国は正成を見習ったものである。乃木は正成に関する書物をできる限り集め考究した。正成が子の正行と別れた大阪府三島郡島本町の史蹟桜井駅跡の石碑の「楠公父子訣別之所」という文字は乃木によって書かれたものである。そして、乃木は楠木正成について次のような歌を詠んでいる[226]。, いたづらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき 根も幹も枝ものこらず朽果てし 楠の薫りの高くもあるかな, 国史学者・笹川臨風は、「乃木将軍閣下は楠公以降の第一人なり」と乃木を評しており[227]、伏見宮貞愛親王は乃木について、「乃木は楠木正成以上の偉い人物と自分は思う」「乃木の忠誠、決して楠公のそれに下るべからず」と述べている[228]。, 若い頃より歯が悪く、43歳の時点ですでに下顎に数本の歯が残っているのみであり、明治24年(1891年)には入れ歯が合わないことを理由とする休職願を陸軍大臣・高島鞆之助に提出している[229]。, 乃木は静堂の号を持ち漢詩[注釈 29]をよくした。乃木が作成した漢詩の中でも『金州城外の作』、『爾霊山』および『凱旋』は特に優れているとされ、「乃木三絶」と呼ばれている[230]。, 山川草木轉荒涼 (山川草木転(うた)た荒涼) 最終的には乃木は罪を問われずに済んだものの、山県が自ら乃木の失態を赦したようにもとれる記述でしたので、気になりました。

その後、「乃木将軍の肉声と其憶出(乃木将軍の肉声)」が発売された同じ年に、日本ビクターおよび小笠原から乃木神社へ市販盤と、そのスタンパが奉納された[244]。それ以外の資料一切は、湯地家関連資料に関しては昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で灰燼に帰して現存しない[243]。協栄生命保険元取締役[245]でSPレコード愛好家の志甫哲夫は、金属原盤をテープ化する頃には湯地原版のみ残存しており、そこからCD用の音源を制作したと推定しているが[246]、湯地原版の所在は「処分されたか或いは戦災で消失したか」で不明である[247]。なお、宝映が昭和32年(1957年)4月に公開した「日露戦争と乃木将軍」という映画には湯地原版が写っている[248]。また、長田幹彦によれば大正14年(1925年)11月3日(明治節)のJOAK(東京放送局)での講演放送で湯地原版を使用して乃木の肉声を放送したところ、「当時非常なセンセーションを捲き起した」[249]。, 当該録音に先立つ明治42年(1909年)10月15日には、同じ偕行社で行われた加藤清正300年祭に関する第1回目の相談会で湯地敬吾が乃木の演説の録音に挑戦したが、この時の録音は復元が試みられたものの、最終的には再生は不可能だった[250]。, 湯地丈雄・敬吾の湯地家と乃木の妻・静子の実家である湯地家とは血縁がない[251]。 その際、出席者の一人が、乃木に対し、蓄音機に声を吹き込んで欲しいと依頼した。すると乃木は、「おう、それはおもしろい。皆さんと一緒に吹き込もうではないか。」と述べ、三上参次文学博士の紹介に次いで、「私は乃木希典であります」という声を吹き込んだ[235]。, この音声は、昭和5年(1930年)12月に相談会の出席者でもあった小笠原長生の解説を付して「乃木将軍の肉声と其憶出(乃木将軍の肉声)」として発売された[236]。 乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、陸軍軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。, 幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した[1][注釈 1]。さらに後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた[3][注釈 2]。, 嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)と壽子(ひさこ、「壽」とする文献もある[5])との三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生まれた。希典の長兄および次兄は既に夭折していたため世嗣となる。, 幼名は無人(なきと)。兄たちのように夭折することなく壮健に成長して欲しい、という願いが込められている[5]。, 父・希次は江戸詰の藩士であったため、無人は10歳までの間、長府藩上屋敷において生活した。, 幼少時の無人は虚弱体質であり、臆病であった。友人に泣かされることも多く、無人の名にかけて「泣き人」(なきと)とあだ名された。, 父は、こうした無人を極めて厳しく養育した。例えば、「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」と述べ、無人を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。この挿話は、昭和初期の日本における国定教科書にも記載されていた[6]。, 詳しい時期は不明だが、無人は左目を負傷して失明している。その原因として、一説には、ある夏の日の朝、母の壽子が蚊帳を畳むため寝ている無人を起こそうとしたが、ぐずぐずして起きなかったので、「何をしている」とたしなめ、畳みかけた蚊帳で無人の肩を叩いた際、蚊帳の釣手の輪が無人の左目にぶつかってしまったことによるという。後年、乃木は、左目失明の原因を明らかにしたがらなかった。失明の経緯を明らかにすれば母の過失を明らかにすることになるため、母も気にするだろうから他言したくない、と述べたという[7][注釈 3]。, 安政5年11月(1858年12月)、父・希次は、藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれ、長府(現・山口県下関市)へ下向するよう藩から命じられた上、閉門および減俸の処分を与えられた。無人もこれに同行し、同年12月(1859年1月)、長府へ転居した[8]。, 安政6年4月(1859年5月)、11歳になった無人は、漢学者の結城香崖に入門して漢籍および詩文を学び始めた。また、万延元年1月(1860年2月)以降、流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術および剣術なども学び始めた[8]。, しかし、依然として泣き虫で、妹にいじめられて泣くこともあった。文久2年6月20日(1862年7月16日)、集童場に入った。同年12月(1863年2月)、元服して名を源三と改めたが、依然、幼名にかけて「泣き人」と呼ばれ、泣き虫であることを揶揄された[8]。, 元治元年3月(1864年4月)[注釈 4]、16歳の源三は、学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して、長府(現・山口県下関市)から70km以上離れた萩(現・同県萩市)まで徒歩で赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。玉木家は乃木家の親戚筋であった。文之進は、源三が希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述べて、源三の弟子入りを拒絶した。しかし結局、源三は玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた[9][10]。, 元治元年9月(1864年10月)から、源三は萩藩の藩校・明倫館の文学寮に通学することとなった。一方で、同年11月(同年12月)から一刀流剣術も学び始めた[注釈 5]。一刀流については、明治3年1月(1870年2月)に、技術習得を意味する「目録伝授」されている。, 元治2年(1865年)、源三は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した[11]。, 慶応元年(1865年)、第二次長州征討が開始されると、同年4月(同年5月)、萩から長府へ呼び戻された。源三は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口(現・山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)に加わった。この際、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げた[12]。しかし、そのまま軍にとどまることはなく、慶応2年(1866年)、長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に入学(復学)した[11]。, その後、報国隊は越後方面に進軍して戦闘を重ねたが、これに参加しなかった。明倫館在籍時に講堂で相撲を取り、左足を挫いたことから、藩が出陣を許さなかったのである[13][14][15]。 十里風腥新戰場 (十里風腥(なまぐさ)し新戦場) 初代師団長 乃木 希典 日露戦争の乃木将軍の写真といえば、「水師営の会見」が有名です。小国日本が大国ロシアの要塞を攻め落としたということで、海外の記者が歴史的な大ニュースを掴むために押しかけ、撮影されたものです。 この写真の右に見えます木は、水師営の歌にも出てくるナツ�

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